2024.02.04 福島で撮影を続けることについて

いまも継続して撮影している「Semicircle Law」という作品は、撮り始めてからもうすぐ13年が経ちます。これまでに何度か展示をしているので、これを読んでいる人は、それがどういうものか知っているかもしれません。

2011年3月11日の東日本大震災の直後、津波を被って電源喪失状態となった福島第一原発では、3月12日から15日にかけて、6棟あるうちの3棟の原子炉建屋内で続けて水素爆発が起き、放射性物質を飛散させるとともに、炉心がメルトダウンするという大きな事故が発生しました。
それから1ヶ月すこし後の4月22日に、福島第一原発の周辺は避難指示区域とされて、原発から半径20km以内の全ての住民が避難しなければならなくなりました。このシリーズの撮影はその前日の4月21日から始まっています。

震災と原発事故のあと、被災地に行く?行かない?といったようなことを、写真家や写真の関係者が顔を合わせると話題にしていたなと思い出しますが、当初、自分は被災地に行くつもりはありませんでした。
災害を伝える写真、つまり報道などのドキュメント性の高い写真は、被害を受けたその現場へより早く/より近くへ行くことが求められます。写真が力をもつためには、ことが起きた後の生々しさができるだけ残っている方がいい。でもそれは、自分ができることではないと思っていました。
撮影者は被災したその場に立って、なにを撮り、なにを撮らないかという選択をするわけですが、そうするとどうしても、より訴求力の強いイメージを撮ろうとするものです。甚大な被害に見合うだけの、より悲惨に見えるもの、より深刻に見えるものを。福島の場合で言えば、人物を撮るのなら、私服の人よりも防護服を身に着けた人であるし、ただの山林や田畠よりも、放射性廃棄物を詰めたフレコンバックが高く積まれた風景を選ぶ、というようにです。そういう写真を撮る意義はもちろんあります。それは「伝わりやすさ」であり「わかりやすさ」と言ってもいいと思いますが、そうやって撮影者の主観で被災地を切り取っていくようなこともまた、自分にはできそうにない。
じゃあ、なにもしなければいいのか。写真を撮る者として、なにかしらの方法で関わりをもっておかなければ、直接の被害を被らなかった自分は、この事故のことを他の多くの災害と同じようにきっと忘れてしまう。そしてテレビのニュースで取り上げられた時だけ思い出すようになってしまう。それは嫌だ。そう感じて、なにか適切な取り組み方はないだろうかとあれこれ悩んでいたのを憶えています。

当事者か非当事者かでいえば、自分は福島の原発事故に関しては非当事者です。当時の事故の推移を思い返せば、より悪い条件が重なっていれば、関東に住む自分も当事者になりえたわけですが、幸い、そうはならなかった。
あの当時、分別のある写真家は、自分が当事者であるか非当事者かという、明瞭な線引きのできないグラデーションのなかで、自分の立ち位置を見定めていたのだろうと思います。自分は内側にいるのか、外側にいるのか。いやそもそも、なにからみた内側/外側なのか、という。

自分は当事者である、被害を受けた者としてこの原発事故を写真に撮っている。そのように声を発すれば、写真には「わかりやすさ」が備わる。けれど当事者ではない自分は、自らの前に線を引き、外側から撮るしかありません。事故のことをわかったふうに語ることも、直接の被害を被った人たちの立場に立ってなにかを代弁するようなこともせず、当事者と認められる一線の外、ある一定の距離からしか見ることが出来ないという条件があっても、なにか説得力をもつものが作れるのではないか。より早く/より近くではなく、より長く/より遠くその影響が及び、しだいに忘れられていく福島のケースだからこそ。

主観的な切り取りをしないために設けた撮影のルールは、原発から半径約30kmの半円内にある山の頂上に登って、地図とコンパスで原発の方向を見定めて、原発が必ず画面の中心になるようにカメラを向けてシャッターを押すということでした。山頂と原発を結ぶ一本の直線上にレンズの光軸を重ねてシャッターを押す。この13年間やってきたことはその繰り返しです。時期を変えて同じ山に何度も登ることも増えてきました。

「わかりやすさ」を追うことはできそうにないと書いたけれど、それでもこの福島のシリーズは、これまで自分が撮ってきた写真とは違うのではないかと言われます。
なにより、福島の原発事故を撮っている、という拠りどころがあります。写真を鑑賞する側からしても、これは原発事故を扱っていると知った上で写真と向き合うことになる。そこには鑑賞をする上での「とりつくシマ」がじゅうぶんにある。そして写真家がこの災害を撮ることは、もっともなことだと見做されます。
原発事故を扱うということは、写真を「もっともらしさ」=共通の理解のなかで撮り、見せるということです。わかりやすくはないけれど、もっともな行為だと思われることは避けられません。
「Semicircle Law」以前の写真は、その「とりつくシマ」が少なければ少ないほど、望ましいと考えているところがあります。情報が少なく、意味としてあらかじめ用意されているものも少ない。なぜ写真家がこの場所を撮るのかわからない。そういう写真です。
自分はそのどちらもが写真だと思っているんですが、「もっともらしさ」を帯びた写真と「もっともらしさ」からは遠い写真を並行して続けていることは、もしかしたら作家としてのブレなのかもしれない。それは今の自分にはわかりません。続けているうちに、どこかでその二つが合流する地点があるのではないかとは思っています。

このシリーズは2013年の1月に写真集として刊行して、そこで撮影は一旦終了だと考えていました。その気持ちが変わり、もうすこし撮り続けようと思ったのは2013年の夏頃だったか、東京オリンピックの招致活動のなかで誰かが「復興五輪」という言葉を使い始めたときです。社会が、災害にかこつけて別のことを推し進めようとするときは、当の出来事を過去へ追いやろうとしていることの兆しですから。
事故の後のまだ間もない頃は、避難を強いられた場所はずっと人が立ち入れないままで、住民が戻れることもないと思っていたのが、実際には避難指示区域内の線量の低い場所は着々と避難解除をされ、あらたに帰還困難区域が設定されたりと、行政的な区分けが変遷しはじめたのも2013年頃でした。

ここ数年は、海に近い市街地にはお店も増え、箱物施設も増えてと様変わりしつつあります。帰還困難区域のうち、かつて集落があった地域などは特定復興再生拠点とされて除染も完了し、避難解除がされました。残りの帰還困難区域はほぼ山間部です。それは今後どうなっていくんだろう。30年も経てば半減期をむかえる元素もあるので、除染をしなくても時間と共に放射線量は低減していくのでしょう。

街や集落の変化とはべつに、山頂で繰り返し定点的に写真を撮っていて気づくことがあります。それは木が成長しているということ。以前は梢の上から遠くの原発建屋が望めたはずの場所でも、木が伸びたせいで隠れてしまっている場所があります。当然のことではあるけれど、山に生えている木々も時間とともに育っている。そこでは原発事故からの復旧という、人間の営みの時間とは異なる間尺の時間が流れています。

もしこの事故が起きた時に自分が20代だったら、長めの時間を見通すだけの余裕がなくて、このシリーズをたんたんと続けてみようとは思えなかったかもしれない。もし50代だったら、体力的に山に登って粘り強く撮影を続けることは難しかったと思う。事故当時の自分が、写真を始めてから20年ほどが過ぎた30代後半だったことは、この撮影に取り掛かろうと決める上での小さくない要素だったと思います。その時の自分が出くわした現実の一端を受けとめて、この地域が今後どうなっていくのか、その進んでいく先をできるかぎり見届けたい。廃炉がいつ終わるのか、もはや誰にも予測ができないけれど。

撮影を続けているかぎりはこの事故のことを忘れることはないし、原発行政や災害についても知り続けることができると思っていましたが、実際にはこの13年のうちに、当時の記憶が鮮やかさを失い、記憶の棚の奥深く、遠くへとすこしづつ離れていくのを感じています。
もし東日本大震災よりも深刻な災害が起きたら、相対的に、私たちは福島第一原発の事故のことをさらに早く忘れていくと思う。そしてそれは日本のどこかで(あるいは首都圏で)、大いに起きうることだということが、今年1月の能登での大きな地震を目にした私たちには容易に想像できます。

それでも、これまでに撮ってきた写真を見返すと、その深く遠くへ離れつつあることがらをあらためて思い起こすことができます。写真は記憶の留め金のようです。この先、何十年か経った後でも、その時そのときの留め金が、記憶の奥の深く遠いところから、微かな光を照り返してくれます。その留め金を見るとき、忘れていたことが忘れられたまま、自分のうちにありつづけていたと気づくはずです。


2023.11.30 わたしたちの長い長い後退戦

4年ほど前、エールフランス航空の機内誌の仕事で、一緒に京都を取材して歩いたライターさんは、ユダヤ系のフランス人でした。なぜそういう話になったのか、会話の前後は覚えていないけれど、タクシーを待っているときに突然「私の父はシャルリ・エブドの襲撃事件で殺された」と話し出した。パリの週刊新聞「シャルリ・エブド」に掲載された風刺画をイスラムへの冒涜だと過剰反応したテロリストが、2015年1月に編集部を襲い、12人の編集者や漫画家、警察官を殺害した事件。彼女のお父上はそのときに亡くなった風刺画家だったらしい。
こちらはただただ驚いて、その場でまともなお悔やみの言葉も言えなかった(それを言える英語力もなかった)。事件からまだ4年しか経っていなかったから、彼女の中の怒りや悲しみがまだ鮮やかに残っていてもおかしくはなかったと思う。

けれどその告白のあとの、彼女の京都在住の友人も交えての夕食の時、これも会話の文脈は忘れてしまったけれど、彼女が「でも私はイスラエルのやり方は間違っていると思う」と、はっきりとした口調で言っていた。その2019年当時、イスラエルとガザでどのような衝突があったかは覚えていないけど、食事中に話しても唐突ではない程度にタイムリーな話題だったんだと思う。
肉親の悲劇を経てのその心境というのは、日本人の自分には容易に「分かる」とか「正しい/正しくない」とか言えるものではないけれど、このひと月、彼女のことを思い出していました。

世界がゆっくり後退している。ぼんやりとしたそんな印象が頭から離れなくなったのはウクライナとロシアの戦争が始まってからだけれど、実際はもっと前、ドナルド・トランプが大統領になった2017年からゆっくり、その印象が濃くなり続けているのかもしれない。

それ以前にも戦争はあったし、理不尽なテロも、愚かな政治家も存在していた。やりきれない気持ちにとらわれるようなことが起こるたびに世界は後退し、けれど、そんなふうに悲劇や論争や軋轢が生じても、世界はそれらの出来事から多くを学び、2歩後退したあとに3歩前進できる。そうして世の中は1歩づつでも良い方向へ進んでいくという認識が、以前の自分にはありました。自分が大人になった1990年代後半に歴史を振り返ったときには、たしかにそうだったと思うんです。その当時の時点で、いま生きている世界はベストなものではないけど、それぞれの時代に生きた人たちが試行錯誤のバトンをつなげた結果、100年前よりも50年前、50年前よりも今がベターなものになってきている。とすれば数十年後の世界も、今よりはベターな世界であるに違いない、そう思えました。2023年の現時点ではそんな楽観的に、未来が現在より良いものになっているとは言えそうにありません。

私が幸福や自由を求めるように、他人もまたそれを求めることを認めること。そこでもし対立が生まれたなら、暴力ではなく対話をすることで乗り越えること。それを、長い歴史のなかで何度も失敗してきたけれど、目指してきたのが人間の歩いて来た道で、引き続きそれを目指すのが人間の向かう道だという共通の認識は、いま、かなり危うい。なぜそうなってしまったんだろう。

底が抜けた。タガがはずれた。そんな何周も擦られた言葉以外になんと表現していいかわからないし、それを分析できる知識も自分にはないんだけど、この4〜5年のあいだに、どうやら社会は、おのずと良い方向へ進んでいくことはないらしいと気づいてきました。だからといって急に悪くなるとは思わないんだけど、それぞれがそれぞれの持ち場で正しいと思う方向を選び、しかもそれを続ける努力をしないと、良くなるどころか、現状維持すら難しい。

そもそも、どちらが良い方向だと言えるんだろう。
今も、世の中を少しでもマシなものにしようと考える人はたくさんいる。正しいと信じるものが失われないように踏みとどまる人たち。でも一方には、それを正しくないと信じる人もいて、その一方にいる人にこちらの正しさを理解してもらうのはとても難しい。人が正しいと信じる方向へ社会を動かそうとすると、それを正しくないと信じる人とのあいだには深い分断が生まれる。ということを受け入れ、その意見の異なる人たちと並行して、噛み合わないところは調停しながら、同じ時間をともに生きていかなければならないのが、このポストSNSの時代なのだと思う。SNSは、自分とはまったく相容れない考えを持つ人が、身近に確実に存在するということを可視化してくれた。
そんななかで、私たちはだんだんと、踏みとどまることを怠ってしまいそうです。自分が正しいと思っていることは本当に正しいんだろうか。踏みとどまるほどの自信を持てなくて、流されてしまいそうです。

フランス人の彼女の立場を思うと、もし彼女がイスラモフォビアに傾いたとしても、同意はできないにしても軽々に批判を向けることもまたできないのだけれど、彼女は憎しみや報復の感情に流されることなく、考えて、多くを知って、自分の選んだ答えに踏みとどまっている。それは容易いことではないよなぁと、この一ヶ月のあいだ考えながら、でも自分のまわりにも、同じように迷いながらも踏みとどまろうとしている人がいることも知っています。
あの人が踏みとどまっているなら、自分ももう少しこの場所を守ろうと思える。そのような人たちを友人として持てていることは、幸せなことです。

そんな友人の顔を思い浮かべながら、世の中がずるずると後退することに抵抗したい。でもこれからは、2歩前進できても2歩後退させられる世界で、油断をすると3歩後退させられる。遠く長い目でみて、もし後退していくことが避けられないのなら、大事なことは、できるだけゆっくり、時間稼ぎをして、自分の守備範囲を固めながら後ずさること。そうやって、次に続く世代に、良くすることはできなかったけど、それほど悪くはなっていない世界を引き継ぐことなのかもしれない。そしてさらにその後に続く世代もまた同じように。
と、最近はそんな考えを頭から追い払うことが、どうしてもできないのです。


2023.09.14 選ばれなかった写真

他の写真家のコンタクトシート(ベタ焼き)を見ることができる機会はそれほど多くはないけれど、写真家の回顧展などで展示されていれば、ひとコマずつ、ゆっくり時間をかけて眺めてしまう。前回の話の続きで言えば、コンタクトシートは「打点表」のようなものです。

2009年にロバート・フランクの『The Americans』だけに焦点を絞った展覧会が北米で開催されて(もちろん観に行けてはいないですが)、その際に出版された『Looking In』という大部の本に『The Americans』を構成する写真のすべてのコンタクト81枚が掲載されている。あれは見飽きません。
それを見ると、一枚かぎりしか撮っていないものもあるけれど、たいていの写真はその場面に遭遇したなかで続けて何枚かシャッターを切っていて、その連続する写真のなかの一枚を写真集に使うものとして選んでいる。フランクさん、わりと試行錯誤しながらしつこく撮っていることがあって、ちょっとホッとする。

自分も写真を撮っているので、写真家が作品として提示した写真には撮られた段階では構図的な、あるいは時系列的なバリエーションがあり、あとはたんに露出違いも当然あるだろうことは分かっているんだけど、こちらは名作と謳われる写真集をずっと見ていて、掲載されている一枚一枚の写真を決定的なイメージとして記憶しているので、その写真(だいたい赤いダーマトペンで囲ってある)の前後に、それと似通った、でもすこし異なるアザーカットがあるのを知ると、決定的だと思っていたものが、選ばれていたかもしれない少し前の時間、少し後の時間も含んでいるように見えて、不思議な気持ちになる。

どこでだったかは忘れてしまったけれど(わりと最近かな)、牛腸茂雄さんの『Self and Others』の有名な双子の少女の写真のコンタクトを見る機会がありました。牛腸さんが選び、写真集にも載っているのは、二人の少女がやや怪訝そうな表情でカメラを見つめるものだけど、コンタクトではその前後に少女たちが笑顔で写っているカットもあって、そこに写真家と被写体のごく短い時間での関係性の推移がみてとれる。と同時に、そちらの笑顔の写真は選ばなかったんだなと納得する。

写真は、撮ることと選ぶこと。撮ることの大事さと選ぶことの大事さはたぶん同じくらいじゃないかと思う。撮ることも、ある意味で視野のなかの一部を切り取って選ぶことなので、そうなると写真というのはほぼ、選ぶという行為で成り立っていると言えるかもしれない。ただ、撮るときに選ばなかったものは残らないけど、撮ったけど選ばなかったものは、選ばれなかったものとして残ります。
ダゲレオタイプやピンホール写真のような写真初期の技法で制作をしている場合は選ぶというほどの枚数を撮らない(撮れない)。写真において選ぶということが重要になるのは、フィルムをロール状に送るようになってからなので、選ぶという作業はとても現代写真的ということになるかもしれません。

だから自分などは4×5で撮った場合はだいたいは撮影の時点で「何枚目のカットが良さそうだ」と目星をつけて、ベタで見たらやっぱりそうだということが多いけど、撮った時点での思い込みから離れたときに見えてくるものもあるので、ベタは時間をあけて繰り返し見ないといけない。
あとは写真集や展示など、数枚のまとまりある組写真として選ぶ場合などは、この写真を選んだらあの写真は選べない、とか、この写真を生かすならこちらの写真も加えなきゃいけない、という選択もある。そうやってベタを眺めながら、ベストな写真を選ぶ階段を慎重に上っていくのですが、その過程で、それ自体は良い写真でも選ばれないものがたくさん出てくる。
これは自分だけなのかもしれないけど、そうやって写真集のためであったり展示のためであったりの選択を終えたときに発生するたくさんの選ばれなかった写真は、本が出版された後、展示が終わった後には、だんだん意識の暗がりへ退いていって、見えないものになっていってしまうなと感じています。
選ばれた写真よりも選ばれなかった写真のほうがずっと多いので、それはなんとなく氷山の、海面より上に見えている部分と、その下に沈んだ、見えない大きな氷塊のような感じだなといつも思います。

その選ばれなかった写真を再び選んだ数少ない例を二つ。
2004年にBankARTで開催された「横濱写真館」という展示で、鈴木理策さんが写真集『KUMANO』のために撮った写真のうちの、写真集に掲載されている写真ではなく、時系列上でそれらの写真の前後の写真、つまりコンタクトシート上の前の写真/うしろの写真を展示していました。いわゆるアザーカットであり、言ってみれば氷山の海面下に沈んでしまった写真なのだけど、鈴木理策さんはそれを展示で見せたわけです。新たに選ばれ、プリントされ額装された写真は、イメージとしてなにかが足りないわけでもなく、みずみずしく、ただ端的に、写真集に選ばれた写真とは少しずれた時間を示していました。
アザーカットを見せるのは、写真を選んだときのその決断を問いにかけることになるので躊躇してしまいますが、その敢えての試みを目にして、63枚の写真で構成されている『KUMANO』は、本に掲載されていて目にすることのできる63通りの瞬間をとらえた写真の束というだけではなく、それぞれの写真が相前後する別の時間を可能性として含み持っている、そんなことを暗示している感じがして、印象に残っています。
決断の束として完成した写真集や展示を見ているだけでなかなか想像しにくいことなんだけど、目にすることのできる写真の背後にはそうした時間の「含み」が漂っている。

ロバート・フランクの『The Americans』は、1958年に初版が刊行されたあと、版を変え版型を変えて7回再刊されているとても珍しい写真集ですが、その3回目の再刊(1978年のアパチュア版)のときに「Assembly Line -Detroit」という1枚を、さらに5回目の再刊(1985年の新デルピール版)のときに「Metropolitan Insurance Building -New York City」というもう一枚の写真を、同じ一連のシーンの別カットに変更しているのは有名な話です。コンタクトシートで確認すると、Detroitのほうは最初に選んだものの4コマ前のカットに、New Yorkのほうは1コマ後の写真に変えている。どの段階で「この写真、差し替えよう」と決めたのかわかりませんが、自身のコンタクトを眺めていて、一度は選ばなかったそれら別の瞬間の写真が、写真家の意識の上面に浮上してきたのでしょう。

それらの写真が差し替わったからといって、写真集から受ける印象が変わるわけではなく、気付くほどの違いでもないんです。でも、この世の中にはオリジナルの写真で構成された『The Americans』(初版〜1969年版)と、そのなかの1枚ないし2枚が入れ替わった『The Americans』(1978年版〜2008年版)が存在している。ということを想像するとき、それぞれの写真はいわゆる決定的瞬間という概念からは離れて、もうすこし豊かな、時間のブレを含み持っているものに見えてきます。決定的瞬間と言ってしまうと、選ばれた写真と選ばれなかった写真は決定的/非決定的という区別で切り離されてしまうけれど、ほんとうは、この写真ではなくこちらの写真だという選択を導くために、選ばれなかった写真は選ばれた写真のすぐ隣にいる。氷山の、海中に沈む氷の塊が海面に氷の山を浮き上がらせるための浮力であるように、選ばれた写真を選ばれなかった写真が支えている。
そのことは選んだ本人も選び終えたところで忘れるし、写真集や写真展を見るときも、そんなことは知らずに目の前の写真を見ればいいと思う。でもコンタクトシートを見る機会があると、その選ばれなかったサイドに残されている写真のこと、氷山を支えて沈む写真のことがふと想像の視界に入ってきます。

とはいえ、写真家からすれば(写真家にもよるけど)、コンタクトシートはそんなに進んで見せたいものではないかも。たとえばアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真は彼の財団が管理しているんですが、コンタクトシートはけして公開しないことになっているそうです。彼が選ばなかったものは見ることができない。いつか見ることのできる日はやってくるでしょうか。
自分がいちばん見たいコンタクトシートはエグルストンのものです。『Eggleston’s Guide』という氷山の海面下にも、大きな、まあまあ大きな氷塊が沈んでいそうじゃないですか?


2023.06.15 素振りと打点

大辻清司さんの『写真ノート』にこんなくだりが書かれていた。
「長い間撮影していないと、すべての調子が整うまで時間がかかるのである。ことに目的のない撮影ではあらゆる意識が勢ぞろいし集中するまで、かなりの時間が必要なのである。その間じっと待っていてもだめなのであって、とにかくなんでもよいから一枚撮影する。それで扉が開かれる。一歩進むためにもう一枚撮影する。このようにして行動することから、発進のエネルギーを注ぎこんでやる。これは私だけのやり方なのだろうか。いつかどなたかに聞いてみたいものだと思う」。それ、わかります。僕もそうです。

写真を撮るという行為には不思議なところがあって、街を歩いているときでも森にいるときでも、なにか気になるものが視野をかすめても、立ち止まり、カメラを構えて、シャッターにかけた指を押す、という一連の動作がすっとためらいなく行えるまで、ほんのすこし時間がかかるときがあります。体が温まっていないというか、視神経と手足を動かす神経がうまくつながっていないというか。それでもなにか一回シャッターを押すことができたら、そうだ、自分が写真を撮るときはこういう感じだったという手応えを思いだし、さらに一回押して、次の一枚へ、その次へとつながっていく。

日をあけずに撮影をしていればそんなことはないんですが、そうもいかないときもあって、そういうときは、ちょっとした散歩や買い物の往き帰りにカメラを覗いてシャッターを押しておくと、撮影の感覚が体から遠のいてしまうことはありません。そういう体慣らしのような撮影のことを素振りと自分では呼んでいます。

この素振りの感覚も、先の大辻さんの言葉も、毎日スマートフォンで写真を何枚も撮ることが当たり前になっている人にはピンとこないかもしれない。長いあいだ撮影をしないなんていうことはなさそうだ。もちろん自分も、日々の備忘的な撮影(その日に食べたものや出会った人の記録)はあるけれど、この素振りの感覚は、そういうのとはちょっと違う感じで、もうすこし積極的にバットを振っていく感じ。ほんとうの野球の素振りが、球の芯にミートさせるようなフォームを確認するように、視野をかすめて横切っていく「撮りたいもの」に眼や体をうまく合わせるという感じ。あるいは、写真を撮るつもりの眼でものを見るようにする感じ。わかりますかね、こういうの。写真を撮りつけている人には共感いただけると思うんだけど。

素振りをすればいい写真が撮れるということではないし、写真なんて、自分の眼で見ていなくても撮れるし、なんなら自分で撮らなくても写真だし、流れていく時間のなかで、流されながら受動的に、撮れてしまった/撮らされてしまったものであるというのも写真の特性の一面としてあるわけですが、一方でやっぱり能動的に、意識的に、自分の眼で見て自分で撮りたいんです。スマホでバシャバシャ撮っていたらそのうちの何枚かは当たるんだけど、たまたま当たった、じゃなくて当てたい。そのための素振りです。

写真を撮るというのは、なにかしらの静止した像を獲得したいという目的のもとで行うのだけど、ただ望んだようなイメージが静止像として定着できればいいというだけではないと、ずっと思っています。
写真は、ある空間、ある時間に立ち会っている自分が、その場所とその時に「とんっ」と点を打つことです。打たれた点が一枚の写真になる。点を打つことを繰り返すなかで、その打たれた点のイメージとしての良し悪しだけではなく、そのときの点の打ち方のひとつひとつに手応えを得たいということが、あると思うんです。

立っている時の足裏で、あるいは物に触れているときの指先で、世界といろいろなかたちで接している私たちですが、それが写真を撮るということでいえば、そこに現れていた光に触れる、あるいは時間に触れることではないかと思う。指先で触れるように触れられるわけではないので、光というものに近づく、時間というものに接近すると言ったほうがいいかもしれないけれど、自分がその場に参画して、光を観察し、時間に目を凝らしていくその過程を、経験として、手応えとして得たい。その過程のどこかで点が打たれて、写真としてなにかしらのイメージを定着できるわけだけど、撮影という行為の内実は、その過程の経験のほうなのだと思う。

写真なんてカメラが撮るものではあるけれど、そのカメラを構えてシャッターを押すというのはやっぱりフィジカルなことで、ある時のある場所で点を打てるかどうかは、身体的な反応に負うところが大きい。長嶋茂雄だって松井秀喜だって、夜な夜なバットを振りつけていないと、いい球が来てもバットが出ずに見逃してしまうように、あ、今、ここ、と思ってもシャッターにかけた指が動かない、点を打てないことはあると思う。

自分は以前から、作品と撮り手は切り離して考えるべきだと書いているので、こういう、撮り手のフィジカルな練度に着目すると、どうしても属人的な評価というものに傾きがちで、だからいま長島や松井の名前を出してしまったことは誤解をまねく素でしかなくて、悩ましい。
ここで言いたいのは、鑑賞する側から見て、この撮り手は素振りをしているか、していないかという評価の話ではないんです。毎日千枚撮っている人の写真が良い写真ということではないです。そうではなくて、撮り手が撮影という行為を続けていく上での、その継続のモチベーションは、撮影という身体的な経験のなかでの手応えの有無がとても重要なのではないかということです。

たぶん、数年後には平面であっても立体であっても、なにか意図するような絵やかたちを、人間が手を動かさなくてもかなりの精度で生み出せるようになりそうです。でもだからといって絵を描きたい人が描くのをやめるわけではないし、木を彫りたい人が彫るのをやめるとも思わない。それはやっぱり身体的な手応えを作り手自身が求めているからです。
写真で言えば、自分がいるその場所をよく眺め、目の前に人がいるならその人物を照らす光を観察し、1分前に見ていた世界と今の世界、1分後の世界は刻々と変化しているということを感じながらそこへ点を打っていく、その打点の手応えを、撮影する人間は手放さないでしょう。最初の打点から次の打点へと移るときの「発進のエネルギー」は、継続のエネルギーでもあるんだろうと思います。

それで、素振りを欠かさず続けていたら、試合本番の打率は良くなるのかというと、もちろん、打率を上げられるなら上げたい。フィルムの金額が上がり続ける昨今ですから、10枚撮って5枚がホームランだったらコスパもよろしいのですが、そこは写真ゆえに、撮られたものがホームランかピッチャーゴロかはすぐにはわからない。ただ、たとえば撮影から帰ってきて夜中に眠りにつく前に、なんであのときシャッターを切っておかなかったんだ、と思い出して後悔することは減ります。

なんだか野球色が濃いめの文章になってしまいました。いちおう断っておくと、自分は若いときに野球部だったことはないし、とくべつに野球が好きなわけでもないです。


2023.03.31 思いのお漏らし

写真を撮る人の「思い」は、写真に写るのか、写らないのか。どう思われますか?
自分は写らないと考えています。でも、どうだろう。自分のように写らないと考えている人は少数派で、写ると考えている人のほうがきっと多いと思う。
いまは誰もが日常的に写真の撮り手でもあり鑑賞者でもあるわけですが、身の回りの誰かに向かって「『思い』というものは写真に写ると思いますか?」と聞いたら「そりゃあ写るんじゃない?」と答える人のほうが圧倒的に多いんじゃないでしょうか。一般的な写真観というものを仮に想像するなら、優れた撮り手とは、より上手に「思い」を写しこめる人であると思われているかもしれない。それこそ、いい写真イコール「思い」が写っている写真、と考えられているんじゃないかという気すらします。
それなのに自分のような写真家を自称する人間が、写真には「思い」は写りませんよと言ったら「あれあれ、こいつ面倒くさいこと言い出したぞ」と思われるのがおちで、だから自分も、たとえば美術や写真とは関係がない人の集まりなどで交わされるその場限りの会話などでは「『思い』写せます」なフリをしてやり過ごしがちです。でもやっぱり、写真に「思い」は写らないと思っています。

写真という表現において「思い」の顕われが問題になるのは、写真がなにがしかの現実の世界を直接に扱うからでしょう。現代の絵画や彫刻では、宗教的な用途で作られるものをのぞけば、「思い」の顕れを云々する余地はほとんどありません。
「思い」を国語辞典で調べると、「ある物事について心を働かせること」「何事かに働きかける気持ち」など何通りかの説明がある。写真家の「思い」は、主に被写体となったものに対して動く気持ちの、そのありようだと言えそうです。それは言葉にならない部分も含みますが、撮り手によっては、それを言葉に乗せて伝えようとすることがあります。ただ、コンセプトと言われるものとはもちろん違うし、ある写真が撮られたとして、事後にその写真について撮り手が反省的に考えたこと、感じたこととも違うかな。その写真を撮る以前に、被写体について抱いていた考えや感情であったり、また、その被写体を撮った写真を飛び越えて、ときに加飾に走る言葉のことです。それは「メッセージ」と言われるものとは、たぶん同じ延長線上にありそうです。

「思い」を持つべきではないという話ではないです。「思い」は多い少ないの違いはあっても誰にでもあるものです。でもそれは写真には写らない。ベタ焼きから、あるいは現像ソフトのコレクションから写真をセレクトするとき、「『思い』が写っている」という基準で選んでいるわけじゃないですよね。どちらかといえば、自分が意図しなかったものが写っていたり偶然性によって撮れた写真を選ぶはずです。意図しておらず、偶然性も排除していない写真にもれなく「思い」も写っているというのは虫のいい話ではないかな。

「思い」が写真に写ると信じている人は、往々にして、現実の世界に対して自身が真摯に向き合っていると疑いなく言えてしまうタイプであることが多く、それは人柄として”迷いのなさ”や”ひたむきさ”をも感じさせるもので、つまり写真家としてはかなり魅力的にみえる。端的に「いい奴」なんですよね(それに比べたら自分のような思い写らない派は「ひねくれた奴」でしかありません)。真摯でひたむきであるがゆえに、あふれるほどの「思い」があり、それがあふれて漏れてしまう。写真にも写っていると言えてしまう。

写真に「思い」が写っていると錯覚されやすいのは、写っているもの、写されてる状況や背景について、撮り手と鑑賞者が認識を共有できる場合です。たとえば親が撮った子供の写真や恋人同士が撮り合う写真。あるいは戦争や災害、大きな事件。福島の原発事故もそうでしょう。だから自分も「Semicircle Law」の展示をするときは、そのように思いを漏らしていやしないかと心配になることはあります。

実際のところ、写真に言葉を添えるという時点で「思い」のお漏らしに一歩近づいてしまう。
まったく言葉を添えないという選択もあるでしょうが、それはなかなか難しい態度だと思う。タイトルやステイトメントとして、言葉での最少限の補助線は引きたい。鑑賞者が感じることを先回りして言葉にしないように、よく注意をして。言葉が写真を飛び越えて走り出さないように、言葉の手綱をしっかりと引き締めて。
それでもなにがしかの言葉が添えられることで漏洩は始まっている。だから漏らしているか漏らしていないかは程度問題ということになります。「パンツがビショビショ」は間違いなく漏らしているけど、我慢して我慢して、でも「ちょっと湿っちゃった」は漏らしていないと強弁できそうです。そして「ちょっと湿ってる」くらいのほうが、現状のこの分かりやすさ至上主義の世界では鑑賞者の受けは良くなる、かもしれない。
かもしれない。そういう鑑賞者もいるかもしれない。でも、「思い」を漏らさなくても、写真をしっかり見て、それだけでなにかを感じたり読み取ってくれる鑑賞者は必ずいます。

写真家が写真を見せるのは、写真を見せるという場を借りて被写体について語りたいからだろうか。それとも写真を見てもらいたいからだろうか。自分は写真を見てもらいたい。ほとんどの写真家もそうでしょう。だって写真家自身、写真を見ることに震えているのだし、その震えを鑑賞者にも感じて欲しいのだから。
写真は、そこに写っているすべてが写真を構成する。人物であれば、その瞳の色、睫毛の長さ、皮膚の質感、身に着ける衣服の毛羽立ち、それらを総合して現れる人の雰囲気、そして人の後ろにみえる背景、光の射し方。加えてその表象を定着しているプリントの質感も無視はできない。写真を見ることは、そうやって写真を構成しているすべてのすみずみにまで目を滑らせて、その表象を通して震えることだと思う。

そこに写っているのは現実の世界に存在する/した何かであるけれど、もし今その現実が目の前にあっても、写真を見るようには現実を眺めることはできない。写真に写された世界は写真でしか見ることができない。それがいま写真と向き合っている自分には開かれていると気付くときに、一枚の写真との対面が僥倖となります。
写真とのこの対面を慎重に準備する言葉というものはあると思いますが、台無しにしてしまう言葉というものもある。「思い」の吐露は、鑑賞者が写真について「心を働かせる」神妙な経験を奪って、撮り手の「働かせた心」や「働かせる気持ち」を押し付けてしまう。

「思い」が漏れていても、経験値の高い鑑賞者であれば、撮り手の「思い」はいったん脇へ置いて、ちゃんと写真を見てくれるかもしれません。でも正直言えば、萎えますよね。「思い」を漏らす作り手は、「思い」を披瀝しなくてもちゃんと見てくれる鑑賞者がいるということを信じきれていないわけで、鑑賞者は自身が信じてもらえていないということに萎えるんです。
ちゃんと見てくれる鑑賞者は少ないのかもしれない。これからはさらに少なくなっていくのかもしれない。でも、いる。そこを信じられないのなら写真を見せることなんてしないほうがいい。

以前も書いたように、写真を撮るというのは、カメラをある時間のある場所へ運んで、しかるべき方向へ向けてからシャッターを切る、ということに尽きる。そのために長い準備をかけなければいけなかったり、遠い距離を移動しなければいけなかったりして、そのような行動を写真家に促す、その原動力はその人の強い「思い」なのかもしれない。
けれど、そうやって時間やお金をかけてついにシャッターを切ったとしても、そこにその「思い」は写らない。その時カメラが向けられていたその画角のなかの、光、色、陰影によってある像が記録されるだけで、それが写真というものです。それは酷なことかもしれない。「思い」も写っていてほしいと願うのも仕方ない。
でも自分は、だから写真というのは面白いと思う。良い写真は撮り手の「がんばり」とはなんの関係もないところからやってくる。

写真に限らず、美術全般、あるいは小説でも音楽でも料理でもなんでもいいけど、「思いを込めてものを作ればきっと伝わる」と言いますが、それは自分も肯定します。それはぜったいそうだと思う。でもそれは、写真のことでいえば、どこに思いを込めるかといえば、定着された像にではなく、その像を定着するまでの過程にであり、その像を鑑賞者に届けるまでの過程にですよね。なぜ被写体はこれなのか。プリントは最良のものに出来ているのか。余白はこれがベストなのか。額はどれを選ぶのか。壁への掛け方はこれでいいのか。照明はこれでいいのか。タイトルはこの言葉がふさわしいのか。そういうことをひとつひとつ繰り返し考える、その思考の積み重ねのなかに込められるものだと思う。
鑑賞者は写真から必ずなにかを読み取ったり感じたりしてくれる。だからそのために、鑑賞者が写真の前に立ち、ちゃんと向き合えるような状況を作り出すことに思いを込める。そこをがんばる。
往々にして「写真に『思い』は写るよね」と雑に考えているナイスな写真家は、そういう、考えなくてはいけないひとつひとつのことを雑に扱っているなと感じることがある。それはすこし残念です。


2022.10.30 遺影と訃報とSNS

人が亡くなった後に、仏壇に遺影写真を飾るという慣習はいつごろから定着したのかな。そう思って調べたら、だいたい日清・日露戦争後の戦死者の供養として、写真を飾るようになったのが始まりらしい。
きっと写真撮影業というものがそれなりに普及して、大きな都市から地方へも広まり、という頃なんだろうけれど、写真が発明される以前は、肖像画などに描かれるのはごく限られた人だけだったろうから、人が亡くなったら、その人が生きていた頃の容貌や姿形は、残された人の記憶のなかに残るだけだった。なので、その家でいちばん最初に故人の写真を置いたときは、見慣れるまでにちょっと時間が必要だったんじゃないかと想像します。死んだ家族の像がいつもそこにあるというのは、不思議な在りようだったんではなかろうか。
母方の生家は岐阜の山間部の昔ながらの大きな百姓屋で、仏壇が500L型冷蔵庫のように大きくて、その上の長押には祖父母のさらに先代の方々の写真がかかっていました。帰省をするたび「あれは誰?」などといちいち訊いていたけど、昔の写真は不鮮明な写りのものが無理に引き延ばされていて、ちょっと怖かった。

遺影は生前に撮られた写真がふつうだけど、19世紀、まだ写真の黎明期には、早逝してしまった幼い子供の死顔をダゲレオタイプで撮影することがあったらしい。「daguerreotype death children」でググると見られるそれらの写真は、着飾って、一見、居眠りをしているようにしか見えないけど、かすかに違和感がある。生きていた肉体から生命が抜けてしまった、あの違和感。だってそれは遺体なのだ。長押の上の先祖の写真よりもずっと怖い。
私たちの感覚からすれば、遺体を写真に撮るのは不謹慎という気がしてしまうけど、欧米では写真以前にも、デスマスクをとるということがあったらしいから、それと同じ感覚なのかもしれない。

もし写真がなかったら、記憶の中の誰かの容貌は、夢の中でのそれのように、それがその人だと同定できるものの、どこかぼんやりしていて、しかも時間とともにだんだんとあやふやになっていく。そういう記憶の頼りなさを、写真が大量に撮られる現代ではことさら意識することは少ないけれど、たとえば東日本大震災の、津波が引いた後に家族の写真を探し回った人がたくさんいたのは、それを心の内ではよく知っていたからでしょう。写真がなくなってしまったら、故人を想起するための”よすが”も消えてしまう。だから170年ほど前の人たちの、たとえ息を引き取った後の姿であっても、写真という技術があるなら残しておきたい、その気持ちは理解できます。
かけがえのない人の姿が、それをどんなに留めておきたいと願っても自分の記憶から徐々に消えていくことを感じながら生きるという、写真前夜に生きた人たちのその寂しさは、今の自分たちにはそうやすやすと想像できるものではなさそうです。
遺影は、その人が「死んでいる」ということを継続的に認識させてくれる。もう、いないのだと。けれどそこに写真というかたちで「ある」「いる」ということも告げてくれていて、写真を見返して記憶を補正し再生できるということは、わたしたちを忘却の不安からすこし救ってくれる。

Twitterで自分がフォローしている人の中には故人が2名います。生前、フォローをさせてもらったのだけど亡くなってしまって、アカウントはそのままになっている。フォローを外してもいいのかもしれないけど、なんとなく外していない。その人のツイートは二度とタイムラインには流れないけど、生きていた頃のツイートは今でも遡って読むことができる。自分だったら、自分が死んだ後にアカウントがずっと残ってしまったら嫌かなと思うんですが、そのような故人アカウントをフォローし続けていることは、その人の死を継続的に認識することのように思えます。その意味で、遺影に似ている。
写真があることで、亡くなった人の姿形は消えないし、動画があることで声や動きは消えず、言葉が残ることで思考も消えない。もちろん、デジタルインフラの宿命として、こういう故人のアカウントがこの先もずっと残り続けるかどうかはわからないけれど。

この2ヶ月ほどのあいだに、著名人の訃報によく触れた気がします。ウィリアム・クライン、エリザベス女王。アントニオ猪木に仲本工事、三遊亭円楽、宮沢章夫、そしてゴダール。
世界では毎日、約15万人ほどが亡くなっているらしいので、そのうちのたまたま続いた何人かということに過ぎないんだろうけど、そうは言っても、自分が物心ついたときから知っている人物や、青年期に影響を受けた方々が、自分の加齢が進むのと同じように歳を重ねていて、順々にこの世を去っていくわけだから、今後もそれを見聞きする機会は増えるいっぽうなのでしょう。この先も、いま80〜90歳前後のあの写真家や小説家や芸術家の訃報が、近い未来のある日に訪れることは間違いありません。
人に寿命があるということは、それが近しい人、大切な人であれば悲しい。けれど、誰にでも死が訪れるというのはたいへん良くできた仕組みだとも、最近は思う。あの専制的な大統領や国家主席たちにも、いつか必ず終わりがやってくる。

SNSというものが一般的になり、情報の受け取り方が様々な面で劇的に変わったけど、いちばん変わったことは、誰かの死の報せとの出会い方なんじゃないかと、個人的には感じています。SNSがある前は、まずは新聞やテレビ、あるいはネットのニュースで知るしかなかったし、ニュースバリューの高くないマイナーなアーティストであれば、自分から検索をしてはじめて知るくらいだったので、訃報が人から人へ駆けめぐるように伝わることもなかった。SNS以前は、誰かが死んだと知れば、その死をまずは個人として受け止めるだけだったけれど、今、死はシェアされ、それはまたたく間に流通する。その人物を知る不特定多数の人間が、時間差無しに共に弔うともいえる現象はSNS以前にはなかったことでしょう。
一方で、こんな考え方はひねくれているかも知れないんですが、死は、どこかエンターテインメントのひとつとして扱われているようにも思えます。誰かが死んだ時、タイムラインがそのRest In Peaceのネタで一瞬だけ沸騰する。そこでは死というもの、不在ということの継続的な認知よりも、「死んだ」という出来事性のほうに、より比重がかかっている。それをどうこう言いたいわけではなくて、自分も含めて、なるほどこうやって私たちは死を受け止めるようになったんだなという感慨があります。

人は誰もが死んで、けれど、誰にでも生きていたときの大量の”よすが”が残されていることで、死ぬんだけど消えないんだろうな。生きてはいないが消えることもない。だからこそ「死んだ」という一回きりの出来事が、生体としての区切り、ライフログの区切りとして、以前にも増して、なにか特異な一点になっているのかもしれないなぁ。
人は死ぬんだけど、消えない。生きてはいないが消えてもいないという領域が、もしいつまでも残り続けるのなら、それは私たちの新しい死後の世界なのでしょうか。寿命の桎梏から解き放たれた彼岸としての。なんてことをふと考えます。


2022.09.10 矩形の比率

興味のない人にはどうでもいい話を、心の中のマニ車をまわすが如くに書き続けているこのnoteですが、今回はそういう話の最たるものになりそう。数字も多めですが、なんとなく自分の頭の整理として書いておきます。

デジタルカメラで動画を撮る場合、現状は4Kサイズで撮っておくようにしていますが、この画面サイズは横3840ピクセル、縦2160ピクセルで、横と縦の比率(アスペクト比)で言うと1.77対1ー縦を1とした場合、横がその1.77倍ーになります(これを16対9と表記する場合もありますが、ここでは比較のため横辺を1で揃えます)。
イメージの矩形の、横と縦の長さがこの比率である理由は4Kの前身フォーマットのHD(ハイビジョン)がこの比率だったからですが、そもそもがこの比率は、HD以前に存在した様々な画面比率のいずれのフォーマットもそこそこうまく表示できるように考案されたらしい。HD以前のフォーマットというのはスタンダードサイズ(1.33対1)やシネマスコープ(2.35対1)などの、映画やテレビ放送で使われたフォーマットのことです。で、この4Kの画面比率で動画を撮っているときに、横に長いな、広いなぁと思うわけです。慣れてきてはいるんですが、でも横長だねと。

カメラによっては撮影時にいくつかの画面の比率を選べるし、動画を編集して書き出す時も、比率を変更することはできる。できるけど、意識していなければ通常はそのまま。画面の比率なんて、ふつうに写真や映像を見る人は気にしないと思うし、気にしないでもとくに支障はありません。撮影する側であっても気にしない人はいるし、実際のところ、それはささいな枝葉の部分かもしれません。でも、画面の比率でカメラを選んだり、比率を調整してプリントや動画出力をしている人もいるんじゃないかなと思っています。イメージの矩形の比率は、写真や映像の見え方に少なからず影響を与えていると思うんです。

自分が主に使う4×5という写真のフォーマットは比率的に言うと1.25対1で、先の4Kの比率に比べると、ぐっと横幅が短く、スタンダードサイズ(昔の映画やテレビの比率)にまあまあ近い。もうひとつ使っているのは35ミリのフォーマットで、これは1.66対1だから、4K比率に比べれば横幅はだいぶおとなしいものの、4×5に比べるとずいぶん横長です。
4×5と35は両方使っているけれど、同じようには撮れないなとずっと感じています。4×5とくらべて35の横位置は左右に広く、撮るべき対象と向き合ったときにその左右の空間に余計なものが写り込む。35(あるいは一般的なレンズ交換式デジタルカメラも)だけを使っている人であればあえてそんなふうに意識しないだろうけど、4×5と比べると、息をつめて被写体と対峙しているという感覚を画面から得にくいと感じるんですね。逆に、35のほうが左右に視野の抜けがあって、切り取られた空間を窮屈さが無く把握できると言えます。

「Semicircle Law」は4×5で撮っていますが、実は天地をすこし切り詰めて、比率としては5×7(1.4対1)に近い。このシリーズは空と山が水平方向に層のように連なるイメージになることが多く、どうしても画面全体のなかの空と山の占める面積が多くなってしまって、天地が冗長になりがちというのがトリミングの理由です。また撮影の方法上、構図を吟味して撮れるわけではないので、その、構図が決まっていない状態というのが、4×5の画面には収まりが悪く、やや横長の5×7だと落ち着くと感じたからでもあります。このシリーズのプリントを最初に作る際、Simone Niewegというドイツの写真家が5×7で撮った、畑のシリーズを参考にしたのを覚えています。空があり、水平線と畑が広がっていて、というイメージの構成要素がこの福島の写真に似ているなと感じたので。
4×5や、それと同じ比率の8×10は、たとえばベッヒャースクールの写真などのように、工場やビル等、なにかしら垂直に立つ構造物だったり、あるいは人物だったりが画面のなかに屹立するイメージのときにガチッと密な構図になるけれど、水平に広がる風景はあまりしっくりきません。4×5のような画面比率は、その矩形のなかにある像にたいして拘束力が強いと思います。画面のなかに上手に事物を配置できれば「絵力」を発揮してくれるけれど、逆に構図の甘さも見えやすい。

写真の場合は横画面で撮るだけでなく、縦画面で撮ることも普通にありますが、そうすればより縦長になり、横画面で撮ったものとは印象が大きく変わります。
昔、大森克己さんは「タテ位置は断定、ヨコ位置は客観」という至言を雑誌に書いていました。
4×5は像に対して拘束力が強いと書きましたが、縦画面で撮る場合はそれがより増すというか、どんな構図であってもそれなりの「決め」感が画面にそなわります。言い切る感じ。とくに35ミリの縦画面は鑑賞者の視線を狭い範囲に誘導して、たとえば襖を細く開けた隙間から対象をじっとみるような、指を差して「これだ」と名指すような効果が出てしまうものです。

それが横画面になって、4×5の横画面から35の横画面へ横幅が拡がるにしたがって、画面の包容力が上がるというか、撮影者の構図の意図を超えたものが写り込んだり、意識的ではない空間の切り取りになることを画面の矩形が許容してくれている気がします。被写体を名指すというよりは、矩形で切り取られた状況・空間をフラットに描写するような。そういう意味では、タテ位置は訴求力の強い単語、ヨコ位置は文章だとも言えそうです。意図しないものの定着、無意識の描写ということを「写真的」とするなら、やや横長の35ミリのフォーマットが写真において最もポピュラーとなったのも道理だなと思います。

小津安二郎の「浮草」という作品が好きです。これまでに何回見返したことか。
この映画は宮川一夫という、黒澤映画を撮っていた撮影監督が、珍しくこの作品でだけ小津と組んでいる作品です。基本的には小津の撮影方法なのだけど、他の小津のカラー作品と比べてもなにかがすこし違う。ライティングなのか、人物の背景がやや暗めなシーンが多くてドラマティックで、かつ他の作品以上に緊張感がある。若い時にこの映画をVHSで録画して、気になるカットをわざわざ写真に撮ったりしていました。

小津映画は一貫してスタンダードサイズ。小津のキャリアの後半にはワイドスクリーンが一般的になっていたけれど、結局それらを採用して撮ることはありませんでした。もし小津がビスタサイズで、あるいはシネマスコープで撮っていたらどうだっただろうと思いますが、人物を真正面から捉えるあのバストショットは、横長の画面だと左右が余ってしまいます。
「浮草」で京マチ子と中村鴈治郎が、雨が叩きつけるなか路地の軒先で向かい合って言い争うシーンは、垂直に降る雨と、まっすぐ立つ人物のシルエット、家屋の柱が、この横幅の詰まったスタンダードサイズの画面に密度をもって収まっていて、ほんとうにかっこいい。
この「浮草」も含めて、小津安二郎の、ときに不穏さも感じるような緊張感のあるショットは、スタンダードサイズだからなのではないでしょうか。

そういえばペドロ・コスタもスタンダードサイズにこだわりのある映画監督だとどこかで読んだことがあります。撮影はデジタルでも、上映の際は35ミリにキネコしているんだとか。
小津もペドロ・コスタも、そういう比率の画面を用いていることは作品の鑑賞体験のほんの一端を担っているだけでしょうし、最初に書いたように枝葉問題なんだろうと思います。そして慣れの問題でもあって、4KやHDの比率に見慣れた今の眼でスタンダードサイズの頃の映画やテレビドラマをたまに見ると「横幅狭っ」と思います。でも、もし商業映画の黎明期に、スタンダードサイズではなく今の4Kのような横長画面が「標準」として採用されていたら、小津の映画も撮り方が違っていたりしたのじゃなかろうか。フォーマットの違いで作品の雰囲気が変わるというのは、映像や写真の制作ならではかもしれません。

不思議なのは、写真で6×6などのスクエアフォーマット(1対1)で撮る人は過去も現在もたくさんいるのに、スクエアフォーマットの映画なり映像作品というものがほとんどないこと。最近はスマホの動画にならって縦位置の映像作品もあるのに、なぜスクエアフォーマットの映像は少ないのでしょう。

それから、4Kの比率である1.77対1で写真を制作する例も、デジタル以降の世代の作品でもほとんどない。昔から、35ミリサイズのヨコ位置画面よりも横長のフォーマットはパノラマ含めていくつも存在したけど、どうしてもキワモノ扱いされているような。1.77対1はデジタルカメラで簡単に選択できるサイズだし、スマホのおかげでいちばん見慣れている画面比率になってきているはずなのに、静止画だと35の比率までが「客観」のヨコ位置画面の限界なのでしょうか。写真のヨコ位置を考えるとき、1.66対1と1.77対1のあいだになにがあるのか、不思議です。


2022.06.25 中堅の深い谷

その山域の入り口では、これからそこへ入って行こうとする人間をにぎやかに、華々しく送り出してくれる。もし人よりも少し訴求力のあるものを生み出せるなら、清新なものを作れるのであれば、すごいすごい、気鋭だ新進だと背中を押してくれる。ゆるやかに右肩上がりの登り道が入り口からまっすぐ延びて、彼らはその道を進むことで、確実にぐんぐん高度を稼いでいける。
ギャラリーで展示しませんか?若手中心のグループ展があるけどぜひ参加してほしい。海外で研修をしてみては?そんな声をかけてくれる「登山ガイド」がたくさんいる。あるいは傍らには一緒に登る同世代の仲間でありライバルがたくさんいる。自分のペースで登る人。駆け足で登る人。様々な歩幅があるけれど、みな一生懸命に前を向いている。
そうしてそれぞれの小ピークにたどり着く頃には30~35歳を迎えていて、アーティストとしての自負と、短いながらもキャリアと呼べるものが出来上がっている。

その小ピークの先からは、なだらかに下りながら続く、平坦な谷がのぞめる。これまで進んできたような、歩くだけで高度を稼げる登り勾配はもうない。若手の小ピークを超えた先に広がるのはただただ深い谷なのだ。そしてその谷を囲むように、周囲に高い山々がそびえている。さながら梓川から見上げる穂高連峰のように。
そのいくつかには過去の登攀者たちの名前が付けられている。中西夏之山、鈴木清山、河原温岳、濱谷浩山、ジョナスメカス山。奥にはデュシャン岳やセザンヌ山もあり、さらにその背後には北斎山やレオナルド山が、まるで南アルプスのような奥深い山塊をなしている。
小ピークからそれらの山々への取り付きポイントへ行くためには誰もが例外なく、谷を進まなければいけない。30歳代後半から歩き始めるその深く広い谷、それは中堅の谷と呼ばれている。

優秀な登山ガイド(ギャラリストや学芸員)が付いてくれたら、中堅の谷も最短ルートで通り抜けて山肌に取り付くことができるかもしれない。でもほとんどの人はガイドなしで進まなくてはいけないのだ。若手と呼ばれていた頃にまわりにたくさんいた仲間(ライバル)の数は減り、ふと気づいたら一人で谷を歩いている。皆、どこへ行ったんだろう。
中堅の深い谷に入ってしまうと、以前は見守ってくれていた登山ガイドたちからはこちらの姿は見えず、彼らからの声も届かない。彼らのほうも、見えないけどあえて探したりしない。だって中堅なんだから、大丈夫でしょう? そしてまたこうも言われる。「中堅って、プライドばかり高くて扱いにくいんだよね」。だから、谷で運良く登山ガイドと出くわすことができた時は、若い時のようなつっけんどんな態度ではなく丁寧な応対を心がけて、少しでも山への手がかりを得ようとする。そしてまた、山へのルートを自分よりも理解していそうな人がいれば、自分より歳若い人であっても、山への彼らの熱意から多くを学ぼうとする。
それでも登山口にたどりつける人はひと握りで、そのなかで山頂まで行ける人はさらに少ない。

中堅の深い谷にいちど足を踏み入れると、引き返すことも容易ではない。ときどき方向を見失う。そんなときは遠くに見上げる先人の山を目印に、自分が進むべき方向を見直し、修正する。先人の山の存在はとてもありがたい。でもこの谷はほんとうに深いので、途中で疲れてしまう。何度も休んで、また歩き出して。いつ山の登山口にたどり着くかわからない。もう山に登り始めてるんじゃねえの?と勘違いすることをくりかえし、途方に暮れ、けれどやっぱりそこはまだ谷の底だ。

しばしば、谷で行き倒れた人を見かける。整備された山道ではなく、まだ誰も踏み固めていない道を切り開こうと、表現の藪を漕ぎ続けているうちに遭難してしまったのだろう。来る日も来る日も歩き通して気が触れてしまったような人も。なんて恐ろしい谷なんだ。
なかには「山に登ったんだけどさ、自分には合わなかったから自分の意思で降りてきたんだよね」と明らかに嘘を言い出すものもいる。あるいはまた、山に登り始めることのできた人を遠く双眼鏡で眺めながら、ただ妬み散らす人もいる。中堅の深い谷では、嘘をつく人、妬みの強い人は野生動物よりも恐ろしい。彼らにはくれぐれも要注意だ。

そんな谷で誰からも顧みられずに何十年もいると、そのうち彼らは登山口を探して谷をさまようことをあきらめ、その谷のなかで、独力で、自分だけの山を築き始める。そう、あの「芸術の山」創刊の辞に述べられていたような、まわりよりほんのちょっと、申し訳程度に高いだけの盛り土の高みを作る。そして「これが自分の山だ」と腹をくくる。谷のなかでは高さがあるので目立つけど、背後にそびえる山に比べればおそろしく低い。
そんな中堅たちの小山が、谷にはいくつもある。自分だけの小山に立って周囲をみまわせば、同じように小山に立つかつての仲間の顔が見える。あー、お前もそこに自分の山を作ったんだな、と、無言で互いを称え合う(あるいは傷を舐め合う)。
さて、自分はどこかの山に登ることができるんだろうか。それとも、谷に盛り土を築くだけで終わるだろうか。なんとなく、後者のうちのひとりになるだろうと思っている。自分は登山口にたどり着けそうもない。

そんな盛り土の小山は、背後の山々が時間を超えて屹立し続けるのと違って、作り主が死んだら風雨の侵食をうけて、そのうち消えてしまうだろう。死後何十年か経ったら、誰かがそこに小山を築いた跡すらわからない。でもそれでもいい。そうやって、自分だけの小山を作ることは、それはそれで尊いことだと、負け惜しみではなく思う。いや、思いたい。

ときどき自分で築いた小山の上に立って、霞のなかに山容を現す偉大なアーティストたちの山々を見上げながら、清々しいあきらめとともにこんなふうに思う。自分は山の頂からの眺めを見ることはできなかったけれど、この山域で生きることができてよかった、と。
ああ、すべてのアートの登山者に幸あれかし。


2022.05.08 写真に淫しない

『挑発する写真史』という本のなかで、金村修さんが柴田敏雄さんの写真のことを「柴田さんの写真って写真に淫していないっていうのかな。内輪の言葉で喋っていない」と評されていた。その言いあらわし方が金村さんならではで、とても面白い。「写真に淫していない」というこの発言は、本のその前後でとくに掘り下げられてはいないものの、なんとなくわかる。わかるけれど、どう説明したらいいのか。

写真で表現をするということが世代を経て続くなかで、写真表現に携わる人たちのあいだだけで共有される了解事の蓄積があるわけですよね。誰々がこういう写真を撮っている。写真という媒体はこういうものだ。あの写真は名作だ/駄作だ、等々。そういう、写真の世界の「なか」での喧々諤々の蓄積があり、それを踏まえて、その範囲の内側で、写真について考え、写真を撮ること。「写真に淫している」とはひとまずそう言えるんじゃないかなと思います。この世の中で写真というものは表現の手段として使われるだけのものではないんですが、そのなかの写真表現史とでもいうものの流れの、その中瀬に腰まで浸かっている状態です。

もう少し言うと、それは写真を教え、学ぶ場での先生や写真家仲間だったり、写真家と写真雑誌と写真ギャラリーで構成されるコミュニティだったりという人間関係の輪が、写真家や写真家を志す人をそういう状況に誘うのかなと思いますが、いま日本で写真を学ぶと、今だにどうしても60年代、70年代から継承してきているものの影響が、その前後の時代に比べて強めだと感じるので、「淫する」という時に想起するのはこの時期の写真や写真家からの流れだろうなという気がします。
テーマや被写体の選び方、プリントの調子の仕上げ方などを先行する写真家から学ぶなかで、それに憧れるにしろ反発するにしろ、すでにある写真表現の問題系の内側で自分の制作をし、そういうコミュニティに向かって発表する。褒められたり、あるいは貶されるかもしれないけど、それは依って立つ言葉が同じだから、そこそこ了解される。そんなふうに先行する写真に真剣に向き合い、それに応えようとすることは、写真を撮っていこうとする人が誰でも通る道で、自分もそうだったと思うんですが、問題は、ずっとそこにとどまり続けることで、そうすると淫しますよね、写真に。
これは程度問題かなとも思っていて、流れの端っこで足を浸けるだけの、浅く淫する人。中瀬に腰まで浸かる、深く淫する人、それぞれあると思います。

「淫する」ことの心地よさに慣れてしまうと、自分が撮ったものは写真の世界である程度受け入れられるものだという前提で撮ってしまう。それに、誰かがすでに地固めした道を歩くという面があるから、楽なことでもあると思う。写真の撮り口が見えている、とでもいいか。鑑賞する側からいえば写真の読み口が見えているというか。
たとえば、中平卓馬さんの昏倒以前の写真は写真に淫しているけれど、昏倒後、再開後のカラーの写真は、写真に淫してないんじゃないかなと思います。これは個人的な思いつきですが、さてどうでしょう。

詩人の荒川洋治さんが、あるエッセイのなかで「自分の書くものが、その世界で、ある程度了解されているという前提がある。詩を書く場面で、このような言葉が入ると『浮かれている』印象を与える」と書いている。この場合は「詩に淫している」となるのかな。
「その世界で、ある程度了解されているという前提」でなにかを作る場合、どんなに扱っている題材がシリアスだったり、トーンを落としてダークな感じであっても、「浮かれている」印象がにじみ出てしまう感じがする。わかってもらえるかどうかわからないことを、少しでもわかってもらえるように苦心した上で、わかってくれる人がいることに賭ける。そんな緊張感に欠けるからでしょうか。
引用が多くて申し訳ないんですが、似たようなことを十文字美信さんも書いていて、十文字さんは「踊る」と表現している。「踊ると駄目なんですよ。結構、人って踊っちゃうことが多いでしょ。踊ると社会に出やすいっていうものあるし」。

踊り、浮かれ、淫する。なんだかパリピ感ありますね。
個々に制作を続ける長い人生のなかで、そういう時期があってもいいと思うんですが、それだけだとつらいだろうなと思います。内輪受けのなにがいけないかというと、そういうものはあまり遠くへ届かないから。そのなかで喋っているそのコミュニティの外へ出たら伝わらないし、コミュニティを構成する人間が世代交代してしまう20年後、30年後の鑑賞者には伝わらない。結果的に、作品寿命が短くなってしまいます。

これは他の表現にも言えることかもですが、その媒体ならではの表現の歴史を学ばずに表現を続けるのは難しいんだけど、折に触れて、学んだことを振り出しに戻すというか、白紙にする作業は役に立つ。『挑発する写真史』のその同じ章では、なにかしら「ルール」を設けて撮ることと、「写真以外のジャンルとの関係」というのがヒントになっていました。どちらも、写真の内側ならではの思考や価値基準に、外から別のフレームをかけて強制リセットすることだと思います。

美術畑、写真畑とかそんなに明確に線が引けるわけではないし、美術にも美術内の内輪があるので、淫した絵画、淫した彫刻というものも当然あるわけですが、美術作家が他ジャンルである写真を扱う際、写真表現史における問題系などは知らず、ただ写真を道具として扱いますよね。パフォーマンスの記録として、コンセプトを視覚的に示すため、写真を使用する。
写真の内輪だけに向かって「写真とは何か」と問いかけることは「やってる感」を示せるだけで、写真としては行き詰まりますが、写真は所詮道具、写真って結局カメラが撮るもんだ、という突き放しができると、淫蕩な感じをまぬがれる場合があります。

写真表現史のなかでどんな写真が撮られてきたかよりも、一般の社会のなかでの人の生活と写真の関わり、たとえば冠婚葬祭での写真や、写メからSNSまでに至る、写真を通した日々のやりとりであったり、あるいは絵画や映画など他メディアとの比較のなかで、写真という媒体はどう捉え直すことができるのかという問いかけを孕んでいるもののほうが、写真としての間口が広くなります。それが「写真に淫していない」ということかなと思う。
写真に淫していないイコール優れた写真とはいかないでしょうけど、そういう傾向の写真のほうにわくわくするのは確かです。

自分の撮るものが、その世界で、ある程度了解されているという前提がある、というのは、ある程度キャリアを重ねた写真家が自作の流れをなぞるときも、向き合わなければならないことかもしれないです。自作に淫するということも起こりうるなと思うので。自戒をこめて。

踊らず、浮かれず、淫せず。なんか日光の有名な三匹の猿みたいだ。
それを貫くなんてかんたんには出来ませんが、のちのち、自分の制作史を振り返った時に、浮かれ踊らず、淫してもいなかったといえる制作期間の割合が多いことを願わずにはおれません。


2022.03.01 キュビずむ街角

夜の夜らしさは、太陽が昇る時刻の1時間くらい前からだんだんと逃げていく。色の無い空に青さが見えてきて、カラスやスズメの鳴き声が聞こえることに気づく頃には新聞配達のバイクが走り出している。夜明けの時間はもう夜ではないけれど、それはそれで、夜明けの時間でしか撮れないものがあります。青くて、でもまだ夜の残りがうっすら掛かっている感じ。
夜明けから日の出まではとても短くて、青さのグラデーションが濃い青から薄い青になったと思ったらもう朝日の黄色い光が街を満たしている。もたもたしているうちに夜を、夜明けを逃してしまったと反省しながらカメラをしまうことがあります。
でも自分がそうやって逃してしまったと思ったその時間は、他の誰かの視点からは、待ち望んでいた朝の瞬間かもしれない。

カメラを担いで、ある道を目的地に向かって歩く。同じ道を往きと帰りに歩いて、往きには通り過ぎた場所なのに、帰り道で同じ場所を通りかかって「これは」と思ってカメラを構える。逆に、往きに惹かれて、帰りに撮ってみようと目星をつけていた場所に戻ってきても、その風景へ惹かれた感覚はどこかへ消えているということもある。
見えている世界が、時間とともに、こちらの動きとともに、なかったものが現れ、あったものが消えて、世界全体のうちの一部分だけを開くように、見え方を変えていくようです。

もし別の時間に自分がいれたなら、もし別の場所からそれを見れていたらどうだっただろうと写真家はいつも想像して後悔して、そうやって分岐する可能性を数え上げながら、それでも人が生きれるのは、その身体があるその場所のその時間しかなく、そこでの今の続きしかない。
じゃあそのありえたかもしれない別の時間、別の場所からの視点は、自分が自分の今の続きを続けることで無くなってしまうのかといえば、きっとそうではなくて、それは別の誰かがそれを眺めている。自分が見れなかった風景、逃してしまった時間は、別の誰かが異なる視点から眺め、写真や映像を残しているかもしれない。
自分の今の続きと、他の誰かの今の続きは別々の視点なのだけれど、同じこの世界のこの時間に同時進行している。時間の流れは一回きりで、この現在は二度はないけれど、その現在の上では、たくさんの誰かがそれぞれ異なる視点からそれぞれの現実を捉えている。そうやってこの世界は多面的に記憶されているんだなと思います。

異なる視点があるというのは、見ている世界が同じひとつの「この」世界だという前提の上でのことです。平行世界とか仮想世界とかマルチバースとかメタバースではなくて、この私の身体、あなたのその身体が置かれているこの世界をどう見るのか、どう捉えるのかという話です。

そしてこの世界についての共通する理解というものを、長い時間をかけ、何世代にもわたって、科学や文学や法や芸術や政治をとおして形成してきたのが人間の社会の歴史で、最低限、この世界に基づくというのがこの世界で生きる上での約束です。この世界についての視点が人それぞれ、あるいは国それぞれで異なることはあっても、この世界とは別の自分勝手の世界を捏造してはいけない。そんなことをしたら、わたしとあなたの今の続きは同時進行できなくなってしまう。

思うような写真が撮れた時に、写真家は全能感に満たされるというか、その世界を見ているのは自分だけだと勘違いしてしまう。そういう気持ちの高揚は写真を続ける上で必要なことだけど、一方で、撮り逃してしまうというどうしようもなさにも、写真を続けるなかで付き合っていくしかありません。その撮り逃してしまったときの後悔、あるいは、今ではなかった、この時間の光ではなかったという不如意が、気付くことのできなかった別の視点、ありえたかもしれない他の視点を与えてくれる、そんな気がします。

時間の流れは思うようにはならないし、自分の体はどこにでも偏在できるわけではありません。なぜそこでシャッターを切ったのかと聞かれれば、たいていの場合は、そのときそこにいたからと答えるしかなく、一人の人間が見ることのできる世界はいつも限定的で、世界を隈なく見通せるわけじゃない。そう自分に言い聞かせて、日の昇る時間、日が沈む時間によっこらせとカメラを片付けるときは、なぜかすこし、ほっとする。
潜在的で、可能的でもある別々のたくさんの視点を織り込んで、今日も街角に日が暮れていきます。


2021.11.30 カメラを挟んだあちらとこちら

もう1年以上前になるけれど、アメリカでBlack Lives Matterのデモがピークにあった頃に目にした、デモ隊に銃を向ける白人夫婦の映像を憶えている。デモの参加者が沿道の家を通りがかったところで、その 家の住人が銃を掲げてデモ参加者を威嚇している様子を撮影したものでした。
それは、あのデモに反対する人間の差別主義的な偏狭さを伝えるという意図のもとアップされたものだったろうし、その動画をSNS上でシェアした人も、その ような意図に共感したからだったと思う。たしかに銃をチラつかせてデモ隊を恫喝するのは共感できることではない。それを観た自分も、こういう保守寄りのア メリカ人ってなんか恐いよねと感じたわけだけど、誰かが指摘していたけれど、その動画を撮った人の背後にはデモに参加する何百人もの群衆がいて、その群衆 が自分の家を取り巻いている、という状況は、その白人夫婦に恐怖を抱かせるのに十分な状況かもしれない。銃を振りかざす夫婦の視点から見えているものを、 その動画は写してはいない。

これもコロナ禍まっさかりのアメリカだけれど、スーパーマーケットでマスクをし ない男性をスマホで撮影していて、その男がキレて暴言を吐いている動画も見た。それは、マスク着用を拒否する人間の偏った考えや粗暴さ、ヤバさを伝えるも のとして伝播するわけで、もちろんほんとうに粗暴な男なのかもしれないけど、一方で、もしこの撮られている人物が自分だったらと想像してみると、とても怖 くなります。

動画を撮り、それをSNSなどにアップするというのはふつうに行なわれていて、 なにか事件性のある事柄に出くわした時も人はそれを動画に撮り、SNSに投稿されたものがテレビのニュースに転用されたりもします。そういうものをほぼ毎 日眺めながら、自分はそれを撮っている側の視点で見ているけれど、撮られる側としてそのような動画を見ることはほとんどない。

もし誰か見知らぬ人間が自分の行動を批判するときに、あらかじめスマホの動画を オンにして目の前に立ちはだかったら、自分は冷静に対処できるんだろうか。カメラを向けられた状態で自分の行動を難詰されたとき、そこに記録されるものが 自分の不利益にならないように振る舞えると、冷静に考えることのできる人間は少ないと思う。ましてやそうやって記録されたものがどのような形で晒される か、撮られる側にはコントロールできない。それがカメラというものを挟んで生まれてしまう、カメラの向こうとこちら、撮られる側と撮る側のあいだに生まれ る非対称性だと思う。映像はカメラの前にあるものを客観的に記録しているという了解があり、反面、カメラの後ろでカメラを操作する側はその客観性の埒外に あるという非対称性です。

こういうことは例えばテレビのワイドショーで、ゴミ屋敷の住人に突然カメラを向 けてしつこく詰問するような報道のように、スマホが普及する前からありました。カメラを盾に正義を押し付けるタイプ。あれは自分がカメラのこちら側に属す る人間だと思ってみている分にはいいけれど、カメラを向けられる対象が自分だったらと想像するとかなりツラい。
実際のところ、相手の攻撃的な言動をあえて引き出して録画するために煽り立てるような撮影者もいて、カメラの後ろのそうした行動は映像には映らない。視聴 数を稼ぐために、いまにも燃え上がりそうな香ばしい映像が欲しいんですよね、そういう人たちは。それは長年パパラッチがやってきたことだけれど、いまは普 通の人がその効果を知っているし、それによって実益を得る方法も持っている。
だからもし自分がそんなふうにカメラを向けられたら、とりあえずカメラを下ろしてほしい、レンズを向けるのをやめてくれないか、そうでないと対等に話ができないじゃないかと、まずはお願いをすると思う。

なんにでもカメラを向けることは良くないとか、そんなことを言いたいわけじゃな いです。写真にしろ動画にしろ、映像が残っているというのは事後になにかを証し立てる際にとても貴重な資料になる。監視カメラやドライブレコーダーがなけ れば突き止められなかった事実があり、カメラがなければ暴かれなかった不正義は間違いなくある。まさにBlack Lives Matterの発端も、不正義をカメラが記録していたから多くの人が知ることができた。そういうことはこれからもあるだろうし、もしかしたらいつか自分自 身をそのような不正義から守る武器になるかもしれない。そもそも暴力に訴える相手と対話など成立しようもない。でも、そうだからといって、カメラというも のの前後で生まれる非対称性が消えるわけではない。そのような映像を目にするたびにそんなことを考えます。

自分は写真を撮る側に立つことが多いので、その立場で考えることになるのだけ ど、もしその場にカメラがなかったなら、いま自分が身を置いて目に見えている状況とそこにいる自分自身はひとつながりで、自分はその「なか」にいるのだけ れど、カメラを構えてシャッターを押した時、カメラのむこうにあるものと、それに対峙してカメラを構えるこちらとのあいだにはすっと線が引かれるという気 がしています。

ベン・スティラーの監督&主演で2013年に公開された「LIFE!」という映 画は、写真にまつわるストーリーで映画としてもおすすめですが、その終盤で写真家役のショーン・ペンが、探し求めた雪豹を前にしてファインダーから目をは ずしてしまいます。「撮らないのか?」と訊かれて、「もしその瞬間が俺にとって好きな瞬間なら、カメラに邪魔されたくない」と答え、そのあとに「just wanna stay in it」とつぶやくシーンがあります。日本語の字幕ではそこが意訳されてますが「stay in it」は「そこに(そのなかに)留まる」でしょう。カメラがあって、シャッターを切ってしまうと、そのなかには留まれない。カメラを挟んだむこうとこちら は切り離されてしまう。
シャッターを切らなければ眼前のその瞬間は写真としては残らないのだけど、シャッターを切ってしまうと、シャッターを切る前までは自分もそこに属していた その瞬間の外へ、その状況の外へはじき出されてしまう。そういう、写真や映像を撮る人間が感じているジレンマのような感覚を、このシーンは端的に表してい ると思います。

このショーン・ペン演じる魅力的な写真家はこのときシャッターを押さなかったけれど、たぶん基本的に写真家というのは、シャッターを押すことでいま属する世界から離れる感覚を好む人間でもあると思う。世界をカメラ越しに「のぞく」ことに無意識のうちに快楽を感じている。

そのときに、カメラを向けられている人や世界と、カメラを挟んでこちらにいる自 分とは、けしてイコールな関係ではないし、対等に向き合っているわけでもないという、ある意味で倫理的なアンバランスがあるということは気に留めておきた いと思っています。撮影というのはいつだってその倫理性の細い線の上をふらふらとしている。
だから例えばナン・ゴールディンのような写真を撮る人がセルフィーを多用するというのは、その一線を行ったり来たりするための方法なんだろうと思います。このことはまたいつか別立てで考えてみたいのですが。


2021.08.26 誰にも見られなくても

オディロン・ルドンの、日本でもよく知られている「キュクロプス」や「起源」のシリーズのような、幻想的だったり象徴的だったりする作品にはいまいち興味 を持てずにいたけれど、ルドンはそういったよく知られている絵画を描く一方で、公には発表する目的もなく、素朴なタッチの写実的な風景画を何枚も描いてい た。そのうちの何点かを数年前にオランダのボイマンス美術館の常設コーナーで見かけて以来、ずっと気になっています。
サイズは大きいものでも40x50cm程度で小さいものは20x30cmくらい。このルドンの風景画だけにフォーカスした展覧会が2016年にフランスで あったらしく、その図録を最近入手して眺めている。どういう絵なのかは「Odilon Redon paysage」とかで検索すると画像が見られます。

これらの風景画を、ルドンは生前に展覧会などに出すことはなかったらしい。
何年か前の国内のルドン展の図録解説によれば「ルドンは風景画の小品を<作者のためのエチュード>と呼び、大切に手元に置いていた。ごく身近な人にしかそ れらを譲ることはな」く、「これらの<作者のためのエチュード>は、ルドンの死後の画廊での回顧展ではじめてアトリエの外に出された」のだとか。

作者=自分のための習作と呼ぶとおり、農村や海岸、樹木や建物などを、厚紙に 貼った紙に油彩で大掴みにざざっと描いている。描き手以外の誰かが絵の前に立つことを予想していないからか、観察したものをそのまま絵にしたような衒いの なさ、企みのなさを感じる。見所がないというか、なにも盛ってないというか。ルドンはデッサンも多く残しているけど、デッサンとは違ってこれらの風景画は 完結している。
不遇にも人目に触れる機会がなかったものと違って、こういう、最初から誰かに見せようと思って描かれたり作られたりしたわけじゃないものが共通して持つ静けさ、作品自体のおし黙り方というものがあるような気がしていて、そういうものにはなぜか惹かれる。

似たようなものはなんだろう。ぱっと思いつかないのだけど、写真家のソール・ライターの展覧会で、ライター自身が手元に残していた手札サイズか名刺サイズのポートレイト群が一角に置かれていて、あれには近いものを感じた。自分だけが眺めるために残されていたもの。
写真で、ほんとうに誰にも見せるつもりはなく撮られているものはエロのジャンルで、おそらくそっち方面は膨大な数になるのでしょう。アートと捉えようがポ ルノと捉えようが、写真家が「どうだ!」と発表するエロ写真よりも、例えばMariken Wesselsの『Taking Off. Henry My Neighbor』のように、アマチュアが自身の愉しみのために秘匿したエロ写真のほうが(倫理的にはともかく)写真としてずっと面白い場合は多い。写真 におけるエロというのは写真と芸術の境界を考える上でとても重要なのだけれど、いちおう、ここは良い子も読んでいる場だし、ルドンの絵からも離れてしまう ので、エロは置いておきます。

数年前に『おじいちゃんの封筒』という本があって、元大工の老人が引退後に手遊びで作る紙製の封筒を集めた本があったけど、あの封筒にも似た空気を感じる。事後にはそれを作品と呼んでしまいがちなのだけど、作品という発想はこれっぽっちも頭になく作られたもの。
アウトサイダー系は、と一括りにするのはあまり好きではないけれど、一般的にアウトサイダーアートと呼ばれる作品は、人に見せることを前提としない制作が行われているかもしれない。誰からの認証も求めていない、寡黙な存在感を放つものに出くわすことがあります。

現代では、人になにかを見せることの垣根は低く、誰にも見せまいと固く心に決め るのでもなければ、人目に晒さないようにするほうが難しい。もちろんそれ自体は私たちが享受すべき技術的な恩恵だと思います。ルドンがこれらの風景画を人 に見せなかったのは、人に見せる主たる作品が一方にあって、風景画はあくまで習作であったことに加えて、その時代にはその手段が限られていたからでもある かもしれない。もしあの時代にSNSがあったら…ルドンだってきっと毎日…。

作ったものを誰かに見せて、反応が返ってくるのはありがたい。気持ちも上がり、 制作の手も進む。自分も、人に見てもらいたいと思って写真を撮っているし、見てくれた人の感想は制作を省みるのに大いに役立つ。人に見せることは間違いな く大事。人の意見を聞くことも大事。でも、別にそれらがなくても作り続けることはできるのだ、ということになかなか気づくチャンスがないというところがと ても現代的なんだろうと思う。

なんでもシェアして多くの人からの認証を得なければという心情が蔓延している気 がする。もちろんいまは創作物の話をしているけれど、より多くの反応を欲しい気持ちが行き過ぎると、たんに創作物を晒すことから、私的なことがらの披瀝 や、注目を浴びそうな、やや過剰な振る舞いをも創作物に添えて提供しかねない。
自分の名前で活動をしていれば、そうしたほうが人の耳目を集められる時というのもたまにはあるでしょう。SNSアカウントを維持する上では、なにかしら上 げ続けないとアカウントが先細るという運用上の致し方なさもある。そもそもこうして文章を書いているのも、誰かに読まれることを期待して書いています。
でも、そのうちだんだん、自分の生の時間を他人の関心の尺度でしか計れなくなってしまいそうで怖い。自分が生きている時間は誰かのためのエンタメではないし、誰かに消費されるために営まれているのでもないのに。

と考えてきて、なんとなく締める一文として、例えば「誰か1人でもいいと言ってくれたら描き続けることができる」とか「10万人がつまらないと言っていても、自分がそれを作りたいと思うなら作ればいい」と書きたくなる。
それはそれで間違いのない、忘れてはいけないことなのだけれど、ルドンの風景画を見ていると、いいと言ってくれる1人、あるいはつまらないと言う10万人 という存在がいるとかいないとか以前の、誰かの評価を気にするとか無視するとかとは違う次元の、そもそも鑑賞する「誰か」というものを必要としていない感 じがする。圧倒的に充足していて閉じている。そんなふうにはなれない。でもそれがおもしろい。


2021.06.30 現実から離れすぎない

朝、目を覚まして布団のなかで、自分の体におかしいところはないかとまずはぼんやり注意を向けてみる。熱っぽかったり、倦怠感はないか。起き上がって顔を 洗ってコーヒーを淹れながら、匂いがすること、味がすることを確認する。どうやら今日も大丈夫。そういう毎日がもう1年以上続いたことになり、もうすこし 続きそうでもある。それがいま自分が生きる現実の、ひとつの瑣末な側面です。

現実は、自分の生活圏から地域へ社会へと延びて、自分の五感で知ることのできる 範囲から、メディアを通して知るだけの事柄へと広がる。広がりが大きくなれば、現実に共に直面している人も多くなり、その現実に対しての共通する理解や解 釈が生まれる。恐ろしい災害、忌まわしい事件。喜ばしい報せ、悲しい歴史。
写真は、報道か芸術かというような線引きは脇に置いて、瑣末で局所的な事象から社会性のあるものまで撮り収めることができるけれど、どのようなことであれ、レンズの前に存在した何かということでは違いがない。写真には、写真より先に現実がある。

多くの人が共通してもつ理解や解釈というのは、世界の可視像にかけられる言葉のレイヤーのようなものかなと思います。
例えば「真昼」も「Semicircle Law」も、レンズの前にあった何かを、約45度くらいのそのレンズの画角で露光したものということでは変わらない。けれど扱う現実の共有のされ方には違 いがある。「Semicircle Law」のほうが、多くの人が共通してもつ理解や解釈とともに眺められることになる。そんなものは無しに写真を見れたらいい、できるだけ少ないレイヤーで 済むように気をつけたいと思っているけれど、それはなかなか難しい。
とくにすでに社会性のある事象を写真で扱う場合、目の前にあるものをよく観察することを怠って、先に言葉のレイヤーを目の前にかけてしまうこともある。そうすると、こう見せよう、ああ見せようと、言葉のほうへ写真を寄せようとしてしまう。それでは現実から離れてしまう。

ティルマンスがあるレクチャーのなかで、なぜか写真は、それが匿名的な風景で あっても、これはどこ?と聞かれることが煩わしいと話していた。風景を描いた絵画を見て真っ先に、これはどこ?とはあまり聞かない。場所性がその写真を撮 らせた要因ではなくても、人はそれが写真だと知ると、これはどこか、いつ撮ったのかとつい聞きたくなるものらしい。
一枚のスタンドアローンなイメージとして見せたいときには、そういう現実との紐帯はたしかに煩わしいなと思うことはあるし、より抽象的な、というのは例え ば地名であるとか風俗の要素をできるだけ画面内から排除して、現実からすこし離れた、どこでもない風景のように撮ることもあります。というか、写真の像は 現実そのものではなくて現実とは別のもの、そもそも現実から引き離されたものではあるのだけど、それでも写真であるかぎり、現実との結びつきを切ることは できないのだと思います。

でもそんなふうに、写真には先に現実があるということが、もしかしたらその時間 と場所に自分が居合わせたら、同じように撮れたかもしれないと思わせたり、同じような瞬間に自分も遭遇することがあるかもしれないと想像させたりしてくれ る。夕暮れがきれいだったとき、虹が出たとき、SNS上ではそういうことが起きる。誰かの目の前にあったことなら、その誰かは自分でもありえるかもしれな いと思える。写真が現実とつながっているというのは、そういう期待を、その鑑賞者の生の時間にもたらしてくれる。

だから自分が言っている現実というのは、リアリティという言葉で言い表されるそれではなくて、各々の身体が置かれているその場所、「ここ」ということです。
この1年は、なにかに手で触れたり人と直かに向かい合うことだったり、空間のなかでの自分の位置=他人との距離などに、間違いなく以前よりもすこし意識的 に過ごしてきたと個人的には感じています。メディアを通して知りえた多くの情報が積み重なる現実の層の底のほうで、コロナがなければ意識もしないような フィジカルな現実のいち場面いち場面に目を向けていたと思う。

福島の原発事故であれ、戦時中の写真のことであれ、写真の作品として展開する場 合はそういう現実的な局面ーどこかへ行く、誰かに会う、何かに触れ、資料や遺物と向かい合う、そういう行為のどこかで、シャッターにかけた指を動かさなく てはいけない。写真を長く続けている人ならわかると思うけれど、結局のところ、ある写真が撮れるか撮れないかは、最終的にシャッターが切られることになる その場所のその位置(「ここ」)にカメラを運んでいくための、意志によるものか偶然によるものか、現実的な手数を積み重ねたかどうかだけだったりする。

この1年間の経験についての多くの人に共通する理解や解釈は、時間とともに厚く なったり薄くなったりして移り変わっていくのでしょう。いま生きる自分たちが日々見聞きすることのほとんどは、この身体からは遠くて、写真には撮れないこ とも多い。それでも写真は、人がそれぞれ生きている瑣末な現実のなかでしか生まれない。


2020.05.30 冊子『写真のとなりで』の刊行

この「note」は、もうかなり以前から書いていますが、すこし意識して書くようになったのは、2015年の秋から2016年までの1年間、オランダに滞在したときでした。
帰国後も少しづつ書き溜まってしまっていて、別にデータだから場所をとるわけじゃないんですが、ここらで紙で読めるように冊子化して、古いものは一旦すっきりさせようと思いました。

オンデマンド印刷のA5判で、『写真のとなりで』というタイトルにしました。
装幀は、自分であれこれ試行錯誤したんですが、最後は美術家の野村浩さんのプロの手際でビシッと締めていただきました。あらためて、さすがだなぁと感じ入 りました。タイトルは妻の萱原里砂につけてもらいました。写真のど真ん中ではなく、その傍らでおろおろとしている感じなんだろうと思います。
冊子化するにあたり、これまで誰でも気軽に読むことができたものに価格をつけるのはいかがなものかと悩みましたが、いちおう冊子化にあたっての経費とトントンにしたいので、900円+税ということでご理解ください。

この「note 」は今後もこれまでと同じようなペースで書いていきます。数年にわたって書いていると、あれ、こういうこと前も書いたかな?と思うことがあって、そういう ときに、画面をスクロールして過去のものを読み返すよりも、印刷された状態のほうが、自分自身にとっては振り返りやすいし、そうやって振り返ることで、過 去に書いたことよりも一歩か二歩は先に進まないといけないという気持ちになります。
自分はやっぱり紙の文字を読んで育ってきた世代なんだなと思います。

基本的には、9月から始まる予定の展示の、会場ショップで売りたいなと思ってい ます。そのほうが実際に手にとってもらえますし。でも、もしそれよりも早く欲しいなと思ってくれる方がいたら、contactに掲載されているメールアド レスへ「冊子購入希望」と書いてご連絡いただければ、1冊からお売りしたいと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。


2020.05.20 写真の時間

以前よりも、動画を撮ることが多くなったなと思う。自分の場合は絵コンテなどを用意してから撮るわけではなく、その場で反応して、30秒とか3~4分の長 さで撮りためていくだけで、だから写真を撮るのとそうは変わらないスタンスで撮っていると言えるけれど、そのようにして撮ってみて感じるのは、写真と動画 の時間の捉え方は違うということです。

写真は、途切れなく流れる時間のある一瞬だけを記録します。映像は、1分の収録 でも15秒でも、それはその1分のあいだ、15秒のあいだは時間が流れている。それが5年経ち10年経って過去の映像になったとしても、やっぱりそれは過 ぎ去ったその時点で流れていた時間を切り取ってきたものであり続けるのだけれど、写真のなかには時間が流れていないから、それはわたしたちが日々生きてい て、知っている時間というものではなくなる。こういうことを書いてうまく伝わるか自信がないのだけれど、もともとは流れる時間の通過点であったその時が、 時間の流れから引き離された「いま」として一枚の写真に定着されている。
写真には間違いなく時間が写っていると感じるけれど、その時間は流れる時間とは別様の、写真だけが捉えられる時間だという感じがしています。

おバルト様の、写真に写されたものは必ず現実のものでありかつ過去のものである が、その現実からも過去の時点からも引き離されたところに見出されるものが写真なのだという簡潔な言明の余白に付け加えて、そのシャッターを切った人間の 「いま」、写されたもののその時点での「いま」が、写真のなかにあり続けていると感じる。生きている私たちは、「いま」というものは、「今!」と思った時 には過去に流れていくことを知っているけれど、写真の「いま」はそこにそのままある。どうしてそこにそのままあるんだろう。映像では、「今!」と思ったそ の時点は、何度も反復できるけれど、ちゃんと流れている。

写真は、カメラの前にある「いま」を光学的に記録できるものです。今まさに生起 していることを、多くの人が同じくして生きているこの時に共有し、知ることができる。それは「現在のいま」で、それを伝えるのが写真の報道性といわれるも のです。たとえばシリアで、あるいは目下は武漢やイタリアやニューヨークの病院がどんな状態にあるかの、もちろんそれは現実に起きていることのほんの断片 でしかないのだけれど、伝えることができる。
そしてそのようにして写真で記録された「現在のいま」は、いったん写真となったらそれはもう、未来からみた「過去のいま」でもあります。
撮影されてから時間が経ち、どれほど先の未来になっても、写真は、自らを眺める鑑賞者を得たとき、写真が撮られた時の「いま」=「過去のいま」を、写真を 見る人にそっと指し示す。写真からみれば、その鑑賞者は「未来のいま」にいることになるけれど、その「未来のいま」においても、写真のうちにあり続けてい る「過去のいま」が響き続けているように思います。時間の流れから外れたものとして定着された「いま」が、写真を眺める時間=「いま」と共鳴する。響き方 は写真それぞれで違うかもしれないし、観る人の「耳の良さ」にも左右されるかもしれない。
「現在のいま」を「過去のいま」に変えて、「未来のいま」において誰かの目に触れられる。写真はそんなふうにして、「いま」を時間の先へ先へと送り届ける。

1936年に撮られた写真、1945年に撮られた写真や1968年に撮られた写 真をみて、この時代はどういうものだったんだろうと思います。この写真が撮られた状況やそのときの世界はどういうものだったんだろう。この「過去のいま」 を生きて写真を撮った人はどういう人だったんだろう。2020年の1月末からはじまったこの今もまた、何十年後かの未来において、そういう「いま」として 振り返られることになるんだろうか。

桑原甲子雄が二・二六事件の翌日の1936年2月27日に撮った「麹町区馬場先 門 二・二六事件当時(千代田区)」という写真がある(検索すればすぐ見られます)。戒厳令が発令された翌日の雪の降る中、桑原甲子雄が皇居近くまで出向いて 行って、カメラをコートに隠しながら撮ったものらしい。
別に衝撃的なものが写っているわけじゃない。事件当日の秘蔵映像を見たときに感じるものものしさもない。でもこの写真を見ると、桑原甲子雄の「現在のい ま」が「過去のいま」として、その写真を眺めている自分のこの「いま」にやってきたと感じる。もちろんどんな大事件や大災害のときでも、無数の人々のとり とめのない時間があることは頭では理解しているけれど、この写真を見ることで、その日、その時を生きていた人がいることを、視覚的な手応えを伴って想像す ることができる。桑原甲子雄の写真は、当時の時点では、先に書いたような報道的な価値はもっていなかっただろうと思います。けれどこの写真は、84年後の 誰かにその時間を想起させることができる。

時間は過ぎるし、記憶は時間とともに忘却の長い長い坂をくだり続けて、なにもしなければいずれすべて消える。こんなことをあらためて言いたくなるのは自分が歳をとったからかもしれない。若い時分はそんなこと考えたりせんかった。
長い歴史のなかで、人は消えてしまうなにかを言葉で、詩や物語にして伝えようとしてきました。絵にして伝えようともしたし、写真術の発明以降は写真で残そ うとし、映像技術がそれに替わった。刻々と消えていく「いま」というもののすべてを残すことはできない、残せるのはほんの断片にすぎないけれど、人それぞ れが、様々な方法で過ぎていく時間に抗っている。自分は写真で残したい。
こういう気分は、2011年3月からの数ヶ月のあいだ、感じていたことだったなと思い出しています。きっと時間の流れがゆらゆら揺れていたからなのでしょ う。でもその頃は写真で残そうとはしませんでした。当時、電力を抑えるために夜の街がすこし暗くなっていたりしたことを今でも覚えているけれど、9年も経 つとそうやって思い起こせる当時の像はすこしづつ薄れてしまって、あの「いま」はもうここにはない。だから写真に撮っておけばよかったなと思っている。現 状、そんなに出歩けないけれど、買い物に出かける時はカメラを持つようにしています。

でもほんとうのところを言えば、現在のような状況だけが特別な「いま」だとは 思っていなくて、「いま」はすべて等しく「いま」です。例えば『真昼』での「いま」もこの2020年の春も、流れていく時間のなかで一度しか起こらなかっ た、同様の「いま」であることに変わりはない。違うとすれば、その「いま」に対して鑑賞者の共通の了解をどれほど得られるか、どれだけ多くの人がその「い ま」を「あの時だ」と認識できるかということだと思います。だから写真を事後的に編むことで、それがどんな「いま」だったのかを浮かび上がらせることがと ても大事なのだけれど、そのためには、この「いま」においてシャッターを切っておかないとはじまらない。
先も見通せず、とっぷりと途方に暮れて過ごすこの「いま」を、しっかりと見て、写真の時間として定着しておきたい。


2020.03.20 無意味以上、意味未満

これはなにを意味しているのか。あなたがしていることにはどんな意味があるんですか。
直接そう聞かれることがそれほど多くないのは、意味はなんなのかと問うのは良い質問ではないと、美術に多少触れたことがある人は常識として知っているか ら。けれど心の中では、作品を前にしてそう問わずにはいられないときがあるはずです。一般教養としては美術を前にしたときに、そんなことは考えずに自由に 鑑賞したらいい、あるいは感じればいいとかいうけれど、よく見て、感じた上で、なにかしらの意味を探そうとすることは、しないですますわけにはいかないも のなのでしょう。
ダントーが、カントの芸術の見方を敷衍してこう書いています。「アートとは意味を制作することからなり、その意味とは、ただ事物を見るのではなく、(~)ときに意味を取り違えるとしてもなお、見るもののなかに意味を見出そうとする人間の性向のすべてを前提としている」。

そうである以上、誰かがアートの文脈の上で、なにか作品と呼べるものをアウト プットしたとき、それは無意味なままで留まることはない。自分が作ろうとしているものにはこんな意味があると最初から知った上で作り出す人はいないけれ ど、それがなんであるかは言えないまま、でもなにものかであるかもしれないと感じて、考えを巡らせて、作ってみて、眺めた時点で、それは無意味から意味へ 向かって進み始める。見る人が、作品をみて、意味を探そうとすることを止めることはできない。作品を見ることは自然を眺めることとは違うから。

意味とは結局のところ言葉で、言葉にすることはたしかに大切。言語化できたもの(されたもの)だけが、人のあいだで、あるいは社会で流通するし、流通させることも大切。
けれど、それを制作の前提にしてしまうと、あるいはそのことに慣れてしまうと、言語化できそうなものだけを、制作を進めるなかで無意識のうちにうまく抽出 しようとしてしまう。抽出、つまり、余剰を濾過してしまう。そのほうが早く意味へと到ることができるから。意味へと到る道がはじめからみえているものや、 それが意味として受容される、その受容のされ方があらかじめ了解されているもの、落としどころがみえてしまっているものはつまらない。と思います(あくま で個人の印象です)。

なにかを作っていく上で、その初動の地点できっと向き合っていたはずの、余剰も 含めた大きな塊、茫漠としたなにか、あるいはとらえどころのない絡まりを、制作の過程でもできるだけ手放さずにずるずる引きずりながら進むことのほうが ずっと大切だと思う。大きすぎたり、絡まりすぎていてうまくかたちにできないのであれば、無理にしなくてもいい。濾過せず自分のなかに溜めておいたもの が、しばらくあとになってから、あれはこういうことだったのかもしれないと気付く。そこには時間差がある。
ちょっと話はずれるけれど、よく「引き算の美学」とか言うじゃないですか。でもあれはたいがい、マーケティング的な思考が染み付いた人が、作業の効率化や 省略化をそう称しているだけだったりすると思っていて、なんだか嘘くさい。もし自分がそんなことを言い出したら誰かにたしなめてもらいたい。

作品を作ることと、作品が人の目に触れ、それがなにかしらの意味として、鑑賞者 の心のなかで適当な場所を見出し、言葉としてアウトプットされることのあいだには、時間差があってほしい。アートというものが結果的には無意味から意味に 向かうものではあっても、その向かう道は長く、向かう速度はできるだけゆっくりであってほしい。無意味からスタートして意味として人に伝わる状態へ近づい ていきながら、でも作るという段階では、できるだけ長く意味未満にとどまっていたい。

古谷利裕さんという批評家が書かれている「偽日記@はてなブログ」をかなり頻繁に読ませてもらっています。数年前だけど、そのブログの2017年2月11日のポストにこんな的確な一節がある。

「作品は、目的が事前にあってはならないが、事後的には(複数のあり方で)何ものかであるようになることが望ましい。事前には何ものでもないものが、事後的に、何ものかであったと気付く。新しい可能性は、そのようにしてしか生まれないだろう。」

ここでは目的と書かれているけれど、意味化、言語化と同じことだと思う。「事後的に、何ものかであったと気付く」こと、またはそう気付かれることは必要なことだと思う。

なにかが作品としてアウトプットされたら無意味なままで留まることはないからと いって、ぽんとただ放り出すだけのような態度は、自分にはあまりできないかもしれない。意味へと到るまでは時間がかかるとしても、それをちょっと意味の方 向へ押してやること。押すわけだから、こっちかなと自分が考える方向へ押してやること。それは大事かなと思っています。ちょっと押してやることで、作品は 意味の方向へ進み出す。その押し方の加減というのは、きっと時代によっても異なるし、個々の作家によっても違うだろうけれど。
先にも書いたとおり、強く押しすぎたり、敷いてあるレールに載せるみたいなことはつまらない。結果的には、自分が意図した方向とは違う意味を与えられる場 合は多いし、意味への道はべつにまっすぐな一本道ではないけれど、その押し方の加減に、鑑賞者が作品と対面したときの、取り付くシマが生まれる。

こういう話をするとき、いつも思い出す寓話のようなものがあって、それはジョナス・メカスの『ロストロストロスト』に出てくる話です。

「昔、ある男がいました。村の男たちと同じように畑を耕して暮らしてい たのですが、ときどき遠くを眺めていることがあったので、友だちがこう訊ねたそうです。なぜそんなに遠くを眺めているの、と。すると、男はあの道の果てに なにがあるのか知りたい、と応えたのです。そしてある日のこと、男はすべてを捨てて旅立ち、その道をどこまでも行きました。何年も歩きつづけると、道はや がて狭くなり、細くなり、やがて野原に消えてしまい、とうとうなにもなくなってしまいました。そこにあったのはウサギの糞だけだったのです。そこで男はウ サギの糞をじっと見てから、帰路に着きました。村人たちが男に、道の果てになにかあったのかと訊ねると、男は、いやなにもなかった、ただウサギの糞が一山 あっただけだと応えたのです。もちろん、だれもそんな話を信じようとはしませんでしたが、男はとにかくそう応えました。」

この話から読み手が教訓めいたものを引き出すことはできるかもしれない。ウサギ の糞は男にとっては恩寵のようなものなんだと説明したり、あるいはこのプロセスを「人生とはこのようなものだ」と俯瞰して捉えれば、それは意味を与えるこ とになって、そのほうが多くの人の腑に落ちる。
でもこの話は、あるいはこの男は、ただ「ウサギの糞が一山あった」ということを伝えただけです。それが事実であり、そこに留まることが意味未満だと思う。
意味があるのかと問われれば、意味には満たない。けれどけっして無意味ではないと思わせるなにかが、この男の行動と、それに費やした時間や距離と、そのあいだに男が目にした眺めにはある。制作を続ける上で、そこに留まりつづけることを忘れてはいけないと思っています。